(今回のスピリチュアルは、「黒人霊歌」の方じゃなくて、いわゆるオーラの泉とかそういう系のスピリチュアル。) 僕は、社会性のない子どもだった。家庭の状況は良いとは言えず、孤独に育ち、友達は常に、いじめられっこ同士と言えるたった一人の相方、という形が多かった。 そんな僕の厨二病が、今でいう「スピリチュアル」だった。「潜在意識」とか「オーラ」とか「失われた文明」とか、そういうキーワードに夢中になり、まさに中2、14歳の夏、新聞配達で稼いだお金をつぎ込んで、12万もする瞑想セミナーに行った。
場所は都内のホテルのパーティールームで、参加者はほぼ仕事の能率を上げたいサラリーマンたち。当然そういう場に他に子どもはいなかった。 4日間のセミナーの最終日に、瞑想が明けたところで他の参加者の奥さんの病状を言い当てた僕は、特殊なケースとして取り上げられてセミナー参加者から驚きの拍手を受けた。でも終了後、脳科学で著名だった講師の先生から「いいかい、今日の体験は絶対に人に話さない方がいい。」と念押しされた。
ところが、僕は厨二病まっさかり。そんなこと黙っていられるわけがない。出会う人全てに僕は超能力があるみたいな話をし始めた。しかし、誰もその話を信じないどころか、聞きたがりさえしなかった。最も感じの良かった大人さえ、その後僕と話さなくなったことはショックだった。僕は初めて、講師の言葉の意味がわかった。
以来僕は、「自分は他の人間と違い宇宙の真理にふれている。社会なんてくだらなくて小さいものだ」と考え始めた。スピリチュアルな経験と知識は、小さかった僕の心をこのあと数年間さらに閉ざしてしまう。僕はよりイヤな奴になっていった。結局、社会性のない子どもだった僕にとって、スピリチュアルな知識や体験は、孤独な自分を擁護し、自分を社会から孤立させるためにしか働かなかった。
それが「スピリチュアル初心者あるある」であることを知るのは、大人になってからだ。 宇宙の真理、オーラが見える見えない、気の巡りがどう、スプーンが曲がる曲がらない、アトランティスやムー大陸があった無かった etc… スピリチュアルと呼ばれている知識や体験が何であれ、僕の知る限り、それらは本来、「感謝」という心の状態に向かっている。 ブッダやキリストの教えを引き合いに出すまでもなく、目の前にいる人、目の前にある愛、一つ一つの出来事への感謝こそが、人の精神が目指す境地であり、今日と未来を作ってくれる。 そこに向かっていないなら、それがどんな知識であっても、人の心を閉ざす以上の効果はない。そんな当たり前の知識を中2の僕が持てなかったことは、若さゆえと多めに見てやりたい。
しかし、想像に難くないと思うが、大人になって社会に出てからそこにはまるとタチが悪い。彼ら/彼女らは、宇宙様と繋がってしまっているので、生活が崩壊するまで人の話を聞く事は無い。 世界には、キリストの教えに基づいて殺人を犯す人間もいれば、獄中作家の手記から感謝を覚える人もいる。
目の前の人や出来事への感謝を覚えなければ、宇宙の真理に触れたというような実感は、夢の中で繰り返し行くトイレのように、結果の出ない混乱に人を陥れるだけだ。
ちなみに、他人の病状を当てるみたいなことには、それ以来トライしたことがない。 現実の愛との関わりをほったらかして宇宙に行ってどうする、という思いが、僕を音楽に「着地」させたと言える。