合唱の初恋を背負って

「これは僕が30年待った景色だ」

僕自身は向かって左後ろでピアノを弾いているので映っていないが、これを見て僕は内心でそう叫んだ。

この驚愕の動画は、録画された日の翌朝にここに写っている名だたるアスリートたちのお一人から、SNSオーケー、の文言とともに僕に届いたものだ。

吉田沙保里、武尊、大久保嘉人、狩野舞子、栗原恵、豊ノ島、荻原次晴、潮田玲子、中川 真依、登坂絵莉、YO-HEY、渡辺ナオヨシ、清澤恵美子、星野昴、加藤優、成田童夢、ミノワマンZ。各、敬称略。

この夜、この錚々たるオリンピアンやレスラーたちが完全なるオフで銀座の飲食店に顔を並べたことは、翌朝のYahooニュースになった。フジテレビ「オールスター合唱バトル」の収録から約1ヶ月後のこの日、「アスリート合唱団」たちが、あの仲間と再び会いたいと企画したもので、そこに、指導にあたった僕とDUCを招待してくれたのだ。

ただの酔っ払いの自撮りに見えるかもしれないが、僕には違う。みんなが自由に歌って、それがただ一つになっているという合唱。これは、僕が自由の森学園を卒業する時、「もう一度僕の人生に自由の森の景色を作り出す」と心に決めた、その景色だった。

僕は子供の時から他人と関係を築くのが極度に苦手だった。そんな僕を普通の中学校に行かせたらダメになってしまうと考え、自由の森学園を受験させたその母の勘は、今も正しかったと思う。当時は珍しかった、何もかもが自由でかつ宗教とも企業とも関係ない、自由教育の理想家たちがその理想だけを追った学校だった。

僕の人生がなんとかなったのは自由の森があったからで、自由の森の中で僕がなんとかなったのはその合唱があったからだ。

ただでさえ田舎である最寄りの駅、そこから歩けばさらに1時間かかる山の中の学校。そこで行われる高らかな地声合唱に父母たちは毎回、度肝を抜かれていた。それを作り出している僕ら自身は、(もしみんなが感じていたものが僕に近いものであったなら)どんな成功者たちよりも誇り高い気持ちの中にいた。歌っているその瞬間、世界で僕らにしかできないことをやっているという確信の中にいたのだ。

普段恐れるヤンキーも、いけすかないが膨大な教養を誇るオタクたちも、男子たちを見惚れさせる踊り子の女子たちも(民俗舞踊が盛んだった)、僕には嫉妬の対象だったバンドミュージシャンたちも、学校内に10もあった各劇団のメンバーたちも、そして、保健室で一日中一人でフォークギターの練習をしていた僕も、その合唱の奇跡を作り出す一員だった。

合唱部なんかではない。まして音楽家でもない。優れた発声指導があったのでもない(自由の森の合唱に発声指導はない)。自分が自分であることを制限しない空間と、この人間たちと歌いたいという自由な意志があるだけ。僕にとってはそれこそが合唱だった(これが、国立音楽大学の合唱黄金期「行脚合唱団」と、昭和の教育改革家「斎藤喜博」の合唱に由来する形だったことは、かなり後で知った)。

多くの人々にとって合唱のイメージがそれではないことを僕が知ったのは随分後のことだ。

中学高校と6年暮らしたこの場所を卒業するとき僕は、人生でこんな場所には2度と出会えないだろうと考えた。ここから社会に出てゆくのは、ぬるま湯の湯船から裸で街中に放り出されるようなものだ。

それでも、僕にとって卒業は絶望への船出ではなかった。

自分がこの先も生きてゆくことに希望を持てるとするならそれは、「自由の森を自分の人生にもう一度作り出すことだけだ」と、高2の冬には考えていた。音楽大学を選んだのもそれが理由だった。

わかっていたことだが、自由の森の卒業後は砂漠が続いた。あの合唱を作り出そうとしても素材がないのだ。

自由が前提とされた生活空間もない。歌いたがりの超個性の集団もない。人々が集まる理由になりうる楽曲とその適切なアレンジもない。その「砂漠」を「あの初恋に似た何か」を拾い集めながら長い長い間、歩いてきた。

まるで蕎麦粉も醤油もないアラブの国で思い出のざるそばを作ろうとするような作業だった。でも、僕はそれをやってきた。あの合唱への初恋を、もう一度作り出すためだ。

まず、コーラスのあるバンド音楽に傾倒した。感情的な声とビートがあるという意味では、日本で合唱と呼ばれている音楽より遥に僕の知っている合唱に近かった。

その後、黒人教会に入り込んだ。ゴスペルミュージックは、他のどんな音楽ジャンルよりもあの合唱に似ていた。

やがてオリジナルの素材を作り始めた。ゴスペルの地声合唱に魅せられつつも宗教に興味のない歌い手たちが人生をかけられるような合唱楽曲だ。そして、それを歌うチームを育ててきた(DUC)。

もうあの日に戻れるわけではないことを知っている僕の心は泣きながら、手元にある材料であの日の初恋に少しでも近い音を作り続ける。それが僕の人生だった。

90年代のゴスペルブームの残り火を掘り起こす形で各地のアマチュアチームの指導に入りながら、DUCでマスメディアを含むキャリアを重ね、やがて恩師からの連絡で国立音楽大学の講師に入った。

そんな中、オールスター合唱バトルの話は、誘導ミサイルのように的確に僕の元に飛んできた。

国立音楽大学の音楽文化教育学科に、とある敏腕演出家が「学校の音楽の授業をテレビで再現する」ことに関する相談を持ちかけてきたことがきっかけだ。話を受けた学科長が、ポピュラー音楽にも精通する合唱の指導者、ということで僕に白羽の矢を立てた。

やがて話は「合唱コンクールをテレビでやるにはどうすれば良いか」と膨らんで行った。音楽家じゃないがしゃべくりで人を魅了する芸人さんたちと、合唱は知らないが歌に魂を込めることだけは誰にも負けない演歌歌手さんたちなどが合唱をする案だという。

「そういう合唱をテレビ番組にするにはどうすればいいですかね?」と電話口の演出家さんが僕にきいた。

「ああ、それはですね」と、僕はあたかも知っているかのようにお答えした。事実、その音はすでに僕の頭の中で鳴っていた。多分、30年間鳴ってきたのだ。

超個性の集団が、音楽の技術的なことを超えて、声を束にすることで一つになる。30年前の日々には当たり前だったあの合唱を作る方法を、僕は心の本にびっしり書き留めてきていた。

アレンジ、スタイル、指導についてどうあるべきかを短めにお話しした。その方法は手に取るようにわかる。そこに辿り着くまでの30年の旅路はいつだって話せば長いが、僕の知る限り、仕事ができる人ほど「的確で抽象的な話」を好む。彼らは1つの的確な抽象が100の的確な具体を含むことを知っているからだ。

物語を話すならコーヒーカップを持ち上げる1秒の描写に100文字使ったほうがいいが、仕事の話は30年を3分で話したほうがいい。そう長くもない通話は終わった。

その会話から2ヶ月、なくなったかと思っていた話は具体案に育っていた。4ヶ月後に特番となり、数字が良ければ次があるという。

そこからは、番組をご覧になった方はご存知の通りだ。2022年12月に最初のミニ特番が組まれ、2023年5月14日にゴールデンタイムの大型特番となってこの合唱が全国に届いた。そのプロセスと規模は驚くべきものだったが、それを仕切っている演出家さんのお話は、また時が経ってからご本人に許可をいただいた上でお話ししたい。アレンジと指導は僕が行わせてもらった。

全ての合唱団が本当に見事にやってくれた。全てのチームが個々に違うキャラクターを発揮し(ここが「Nコン」と違う)、審査員を困らせた。特に、音楽とは最も縁遠い存在のはずのアスリート合唱団は見事にやってくれた。一人一人の輝きがあればそれだけで、それが目くるめく合唱の感動を作り出す素材となることを日本中に見せてくれた。涙あり笑ありの収録では、出演者たちはまるで催眠にでもかかったようだった。ある出演者は当日、「全員神様に見えた」と表現した。宗教色は困るが、これは的を射た表現だと思う。

そして、こんなに忙しいそれぞれの人生を確立した人々が、みんなとまた会って歌いたい、とこの打ち上げのためにスケジュールをあけた。その事実こそこの人々が僕と同じように「合唱への初恋」に囚われた証拠として、僕の心を打った。そして撮られたのがこの動画だった。

自由の森の合唱への初恋を背負った僕と、そのサウンドを信じてついてきてくれたDUCが育ててきた音。それが、大スターたちによる5つの合唱団の声で日本中に響いた。それは、歌い手一人一人が自分自身のままで人と溶け合い、そこに参加した一人一人が自分を誇り、スターになる音楽。

この合唱のジャンルを「パワーコーラス」という。感情の乗った地声があり、ビートがある合唱だ。音楽家でなくても、個性を持ち寄ることで最高の合唱の感動を作れる。歌い手だけが楽しい独りよがりなゴスペル崩れでは決してなく、聴いている人々をともに酔わせる。
それは多分、人類が最初から行なってきた合唱の姿だ。本当はただ合唱と呼べばいいはずだが、日本では合唱という言葉は他のサウンドを想像させるので、新たな言葉が必要になる。

公開されているフジテレビに届いた意見を見渡すと随分反響があったことは間違いないようだが、番組がこの先どうなるかはまだわからない。

でもこの感動そのものは、今回の歌い手たちの中に必ず続いてゆく。
僕の恋が30年、僕の人生を引っ張ってきたように。
DUCのパワーコーラスの夢がまだまだ続いてゆくように。


6月10日は初台にて、木島タロー& DUCの、あのオールスターと同じ指導を受ける「パワーコーラス講座」

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