美と引き換えたものを取り戻せ/合唱バトル

合唱のアレンジに面白みが必要か、と言う質問の答えは明確に「NO」だ。

単純であっても美しく重ねられたハーモニーはそれだけで人を引きつける魅力として十分であるし、磨かれた人の声がそこにあるならそれで十分美しいものだ。それに、ゴスペルの和声が3声のパラレルハーモニーで出来ていることからも分かる通り、単純であってこそ合唱にはパワーが出ると言う事実もある。感動のために面白いアレンジが必ず必要などということはない。

しかし、芸能人合唱バトル(2022年12月放送)/オールスター合唱バトルでは勝手がちがう。「訓練期間1ヶ月」で「合唱未経験者」を「テレビで歌って魅力的な状態にする」と言う無理難題と立ち向かう。

旧来型合唱の達人たちは音感と発声を何年も鍛え上げ、シンプルな和音ひとつひとつを宝石のように輝かせる。でも今回はそれとは正反対の環境で争われるのだ。

まず合唱することの喜びに気づいてもらう過程がポジティブな感情となり、果たしてこんなアレンジが自分たちに歌えるのかという不安がネガティブな感情となり、そのブレンドが視聴者が見る物語になるだろう。前者だけではただの遊びになり、後者だけでは見るに堪えない出演者の義務感が表出する。

ここでは、歌い手たちは自分が生活の中で発し、自分の好きな曲を歌うときの「自分の声」を持ち寄り、音楽性以前に「その仲間たちの声と歌える瞬間」を楽しむ。

まるで故郷に戻って地元の祭りに参加する時のような発声の喜びが、年数をかけて作った旧来型合唱の美とさえ魅力を争えるパワーになる。それならきっとテレビで彼らの素敵な姿を見ることができる。

声の個性を一つ一つ封じて「綺麗な声で歌いましょう」だけを言うような合唱では到底視聴者の興味を引くことなどできない。だったらNコン(NHK全国学校音楽コンクール/日本の学校合唱の頂点)を見た方が、週5日×数年単位で一つの美を磨いてきた中高生たちのはるかに神々しい和音を聴くことができる。

が、Nコン型合唱は、美しさと引き換えに「個性の排除」へ向かっている。決勝進出校の課題曲の演奏を数校聴いても、目を閉じてきけば基本的に聴き分けはつかない。差があるとしても多少の音量やテンポの付け方か、団体ごとの男女比によって女声から混声までのバランスが違うくらいだ。
そういうものも個性だと言われるのは、僕にとっては「マスクメロンの模様にも個性がある」と言われているようなもので、専門家にとっていくら大事な意味があっても、メロンを食べる人間にとってはわからない。旧来型合唱の究極形ではそれほどに全く同じ美が出来てくるのだ。だから基本的には、自由曲でどのくらい難しい曲に挑戦しているか、くらいしか争いどころにならない。

いくら美しくても完成形として個性の排除へ向かうなら、「テレビ」で「オールスター」がそれをやる意味はない。

超個性たちが集まり、お互いの存在を楽しむ機会においては、人の声やノリや感情を引き出すアイディア、すなわち、旧来合唱にはないアレンジが必要にはなる。それらは、少なくともこれまでになかったという意味でまず「面白いもの」にならざるを得ないだろう。

そのアレンジを実際に輝かせてくれるかどうかは歌い手たちの尽力による。その瞬間の笑顔を思い描きながら一曲一曲アレンジをしてゆく。

収録の場に居させてもらった僕は、ひとチームの演奏が終わるごとに感動で静かに歓声をあげる。

各チームがこれほどまでに違う輝きを見せてくれたら、上下を単純に測るわけにはいかない。審査員たちは相当困ったはずだ(それがオンエアでも見てとれた)。でも、これが僕の知っている合唱だ。

ヤンキーとオタクさえ歌いながら肩を組み始める僕の記憶の中の合唱。一緒に歌うというだけで人が一つになる、あの合唱だ。そんな夢が現実だった自由の森という場所から離れた後、やがて黒人教会のゴスペルミュージックの中に求めた「生活音楽」としての合唱。Dreamers Union Choir と言うプラットフォームで、途切れることなく紡いできた夢。

実の所、新しいのではなく、多分人は大昔こうやって集まって歌ったのだと思える。そんな合唱。

この合唱が、全国放送で、100人のスターたちの声で紡がれた。

そして彼らは打ち上げへ…

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