ゴスペル人なら知らなくてはならない事。

discrimination_1 つい数日前、アメリカのスペイン語テレビ放送大手「ユニビジョン」が、エミー賞受賞の大物司会者ロドナー・フィゲロアを、番組内の発言を理由に、番組終了直後にクビにしたというニュースが流れた。
 その発言は、「ミッシェル・オバマ大統領夫人は猿の惑星の登場人物にそっくりだ」というものだった。

 日本にいると分かりにくいが、黒人を猿に例えるのは絶対NGなのだ。

 特定の動物がだめ、というのが僕らにはわかりにくいかもしれない。ビートたけしや坂上忍がテレビで安倍晋三やその妻を猿に似てると言っても、それが人種差別だと言われて問題になることはないだろう(口が悪いとか失礼だとかは言われるだろうが)。また、顔の長いスポーツ選手を馬ヅラだと言っても、それが人道問題に問われたりはしない。

でも、黒人を猿にたとえてはならない。それは、差別表現が常にそうであるように、歴史に関係がある。

奴隷制時代、奴隷制を容認していた人々(主に白人たち)は黒人を奴隷として使用することを正当化する様々な論拠を用いた。その一つが、黒人は人間よりも進化段階が遅れた、人間よりも猿に近い生物だ、というものだった。だから、彼らを文明社会に連れてきて文明化するのは黒人種に対する貢献だとさえ考えていた。

真っ黒な黒人の子供がバナナを持ってジャングルで遊びまわる、というイメージは、奴隷制や差別を正当化するために白人たちが使ったイメージだ、と僕の友人の一人が教えてくれた。だから「ちびクロサンボ」や「ウーフとムーフ」がダメなのだ。

僕自身も、猿のぬいぐるみを使って僕にしつこくちょっかいを出してくる黒人の友人に、その猿あんたみたいだな、というジョークを言って、数日間ひどく機嫌を壊されたことがある(それは彼女がちょっと悪かったぞと今も思っているが)。

ストークス(師匠)に聞いたが、アメリカ(北アメリカ大陸)には猿がいないのだという。日本には街で人間にいたずらする猿もいるということに驚いていた。

僕らにとっては身近な動物である猿を例えに使うことはよくある。騒がしい友人を猿に例えたり、「海猿」などの例のように、運動神経のいい人間を良い意味で褒めることにさえ使う。だから、黒人と猿という組み合わせだけがNGという感覚には慣れないだろう。

僕らが覚えておかなくてはならないことは、差別とは、受け取る側がどうとるかの問題であり、精神の美しさというより知識の問題である、ということだ。

つまり、人が僕らに「あなたはどの程度知っておくべきだ」という要求と関わりがあるということなのだ。

 例えば、アメリカ人の集団が北斎の白波の絵を描いたTシャツを集団で着て、津波で甚大な被害を受けた石巻市に入ろうとしたら、ちょっとまて、と一声かけたくなるだろう。
 彼らは言うだろう。「これは誰が見ても美しい絵だし、俺たちは日本を本当にリスペクトしているから着ているんだ。俺らが馬鹿にする意図をもっているなんて彼らが考えるのはまったくの勘違いだぜ。」(ラッツ&スターも似たような事を言いたかったにちがいない)。
 そういう問題ではない。ここで何があったか知っているのか、受け止める側の思いを考えたことがあるのか、という二つの質問をしなくてはならない。
 石巻に来たのなら、知らなくてはならないことがある。日本を好きだというなら、知らなくてはならないことがある。

 以前、石原慎太郎が都知事だった時に「支那人」と発言して差別発言だと指摘をうけたことがあった。その際に彼は「昔中国のことを本当に支那と言ったのだから問題無い」と答えていた。だがその地域の人々が「その呼称で呼ばれた時代に受けていた印象」を無視すれば、それは差別発言になる。その程度の知性ももたないような人間が都のトップであることには、この国をほとほと情けなく思った。

 ちなみに、「Negro」(と、その派生語「Nigger」)は、アメリカの黒人に対して使うべからざる蔑称だが、これもスペイン語で「黒」を表す無機質な単語にすぎない。しかし、奴隷制時代こそ、その言葉で白人が黒人を呼んだ時代だった。だから、その呼称を持ち出すことは、相手の心をかえりみない行為となる。

 先日、ももいろクローバーとラッツ&スターの黒塗りショーのテレビ放映に反対する署名がFacebook上などで行われ、僕も署名し、署名へのご協力も呼びかけた。黒塗りショーは差別表現とされ、国際的にまったくNGだ。
 奴隷制時代に白人たちがそれを行った暗い歴史があり(ミンストレル・ショー)、そのようなショーを放映することは現代アメリカでは全くの不道徳で、禁止されていると言ってもいい。国内に米軍基地をさえ抱える日本でそのような放送を行うことは、あやうく国際的な無知の恥さらしになるところだった。署名が功を奏したか、これは放送されなかった。

 ゴスペルブームなどと言って久しい中、ゴスペルという言葉が、多くの人に「楽しげな合唱の一種」にとらえられている節がある。しかし、ゴスペルを歌っているというなら、黒人たちの歴史や何が非礼や差別にあたるのかについて「どの程度知っているべきか」のハードルは、一般の人よりも高い。そうでなければ、ゴスペルのエネルギーが持つ本当の価値をもらい損ねるばかりか、どこかの歌の現場で黒人の友人たちに会った時にとんでもない地雷を踏むことにもなりかねない。

 ゴスペルは日本人にとって異文化であり、それを歌うことは学びそのものだ。ゴスペルを歌うサークルにはクリスチャンでないのにゴスペルを歌っていいかと悩む人も多いが、その議題以前に知るべきことが山のようにあるというわけだ。
 
 



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