30年後の伏線回収/メジャーデビューに寄せて

DUCことDreamers Union Choir が、活動18年目にして日本クラウンよりメジャーデビューを果たす。その経緯と、僕の歴史。


20歳の時、都内のレコード会社を歩いて回り、アポなしで会えた人にデモテープを押し付けてきたことがある。インターネットなんかなかった時代に、雑誌で住所を調べ、電車で1日かけて5つのレコード会社をハシゴした。

そんなやり方は当時すでに時代遅れだったが、先輩の中年バンドマンからそのようにしろと言われたのだった。

「うっとうしがられて、テープを置いていってくださいと言われるだろうが、その場で聴いてくれと食い下がってこい。後でなんてぜったい聴いてくれないからな。」と彼は言っていた。今思えば人の悪かった彼は、実際に若い僕が行動に移すのを笑いのタネにしていたのかもしれない。それでも、傍若無人で型破りな自分に酔っていた若き日の僕は彼のアドバイスを実行に移したのだった。

意を決した「持ち込みDay」の1件目は、当時最大手の東芝EMIだった。平静を装って自動ドアをくぐり、受付に座っていた男性警備員から「ご予約は?」と呼び止められるのではないかとドキドキしながらロビーを横切って、乗る権利なんかないエレベーターに乗り込んだ。社内の案内を見つけ、先輩バンドマンから言われていた「A&R(Artist & Recording)」という部門を目指した。

オフィスのカウンターから若い男性が出てきて僕の話を怪訝そうな顔で聞いてくれたが、案の定「あとで聞きますので置いていってください」と言われた。僕はそれ以上食い下がることはできず、テープを置いて建物を後にした。

その後3件のことはよく覚えていないが、最後の一件は日本クラウンだった。暗くなり、雨も降り始め、傘も持っていなかった。建物から出てきたなんのお仕事をしているかもわからない白髪で背広の男性に僕は声をかけ、デモテープを渡した。「私みたいなのが聴いてもわからないから若い人に渡しておきます」と、その人は困り顔で答えた。

「ああ、どこでも聴いてもらえなかった..」、濡れながら帰った僕のその日は失意のままで終わった。

しかし翌日、なんと東芝EMIから留守電が入っていた。伝言は「テープの内容が結構いいので、お話聞きたいです」と言っていた。僕は興奮が抑えられず、その日のうちに話せる人間全てに、どうやって僕がEMIのビルに入ったか、どう警備員を恐れたか、他に何件回ったか、昨日の冒険譚を詳細に話した。その日の僕に捕まった連中は、今思えば可哀想だった。

数日後、僕は誇らしくギターケースを背負い、誇らしく電車に乗って、誇らしく駅をおりた。駅から歩くと、警官から職務質問された。その辺りは国会にも近く、ギターケースのようなものは長いものを隠しやすいから調べるのだそうだ。ケースを開けてくれという警官からの質問にも、「はい、ギターです。音楽をやってるんです。すぐそこにある東芝EMIにミーティングに行くんです。」と僕は朗らかに答えた。

ロビーの警備員はもう怖くない。エレベーターのボタンを押すのに緊張もしない。なにしろ今日は呼ばれてきているんだから。

会ってくれた先日の若い男性ディレクターは、名をO氏と言った。

「緊張してる?」と聞かれた。「しています」と答えると「そうだよな。俺だったら緊張するもん」と、O氏と軽やかな会話に入る。

「デモテープ、思ったより曲が良かったのでね」というO氏。

「あと何曲あるんですか?」と聞かれ、僕は言葉に詰まった。これで全部だった。

「2曲か..。10曲はないと判断がつかないですね..。」

当時僕は1曲書くのに半年かかっていた。

「あと8曲、2週間で書いてきます!」と僕は言ってその日は終わった。無茶だと思ったが、やれるとも思った。

過去に作りかけていた曲や、弾き語り一発録音の曲、高校の時に初めて書いた曲まで全て録音して、全ての労力を費やしてあと8曲のデモを仕上げた。

数週間後に、僕の全ての曲を聴いたO氏と再びミーティングをした。O氏の表情は重かった。口を開くと、

「まるで一曲一曲全て別のアーティストが書いた曲みたいですね..。」

と僕に言った。

その瞬間僕は自分が褒められているんだと思った。「そうです。音楽大学で勉強していて、いろんなことができるんです」と内心思っていた。

でも、次の言葉が僕の心臓を締め上げた。

「うちには〇〇というアーティスト(誰が聴いてもわかるビッグアーティスト)がいるんですが、何曲書いてもだいたい同じようなものです。だからみんな良し悪しなど気にせずニューアルバムが出たら買ってくれる。一つの一貫したスタイルを持っているアーティストこそ、レコード会社の財産なんです。あなたのように10曲書いたら10曲まったく違うみたいな人は、どう売ったらいいか、誰に売ったらいいかもわからない。」

僕の息苦しさはその言葉が終わるまでに怒りに変わっていた。ギター一本ジャカジャカやって、何曲やっても変わらないコード進行で、3年前の曲と区別がつかないようなことをやり続ける、そんな自分から脱したいと思ってこれだけ勉強してやってきたのに、それが全く検討はずれの無駄骨であるかのようなその言い方はなんだ。

「僕としては作品に一貫性はあります。特に歌詞の世界です。そういうものを口で説明できればいいんですか?」

「まあとりあえずはね。」

僕が反発しているとわかったO氏の態度は、跳ねっ返りの若者を見下すものに変わっていた。

その後の会話はよく覚えていないが、僕は怒った状態のままその場を去った。

その後一度O氏をライブに誘おうとしたことがあったが、反応のあまりのそっけなさに、この人とは終わった、と思った。

その一件の後、僕は一度だけソニーのオーディションに応募したことがある。「よくある感じの曲なのでもっと個性を」みたいな返事があって落選したのだが、「この転調は僕しかできないものだし、僕独自の経験が言葉に詰まっている。それをわかりもしないでなんだこの言い草は!!」そう怒り狂ってその書類を破り捨てて丸めて壁に投げつけたのを覚えている。

僕のメジャーへの失望はここで固定された。以降、僕の人生で二度と、今に至るまで、自分自身がアーティストとしてメジャーに挑戦することはなくなった。「メジャーが求めるものと僕がやりたいことが一致することはない」「メジャーで下働きはしてもいいが、自分のアートは誰にも頼らずやる」、あの日そう審判を下していた。幸か不幸かそのことは、後日大きな現場に出入りしても自分を売り込むようなことはしない態度を作っていた。

あれから四半世紀経ち、合唱の専門家になった僕はあちこちで先生と呼んでいただくことにも慣れ始めていた。娘も中学生になろうと言う頃には、自分が出た音楽大学でも教え始めた。自分のときめきの全てが大人数のハモリというものに向かっていることには27歳で気づいていたが、自分の音楽を絞り込める年齢として決して遅すぎはしなかったのかもしれない。

30歳を過ぎてから立ち上げたDUCと言う自分のチームにはこんな僕のオリジナル楽曲についてきてくれる素晴らしいシンガーたちが集まっており、その合唱をあちこちで必要としてもらえるようになっていた。プロフィールに書けるような実績のほとんどは他人の曲を歌った機会ではあったものの、このチームが僕のオリジナル楽曲を作り出す筋力を維持していた。音大の講師に招いてもらえるような実績のほとんどもこのチームで築いたものだ。無論、このチームでメジャーに挑戦した事は無い。

音大に勤めて数年したあるとき、フジテレビが音大に相談してきたことからお任せいただくことになったオールスター合唱バトルは、7つの合唱団それぞれに適した「違ったスタイル」のアレンジを書く、という仕事だった。合唱とバンド音楽の両方が理解でき、クラシックとポピュラー合唱の両方の手法がわかる、僕にしかできない仕事だ。演出さんは僕を全面的に信頼してくれ、僕の信じる合唱のスタイルがテレビに出ることになった。

やがてこの合唱スタイルを見たNHK番組の制作をしている方がDUCにコンタクトしてきた。お話を聞くと、なんと僕のオリジナルの合唱曲も聴いてみたいと言う。

メジャーを避けてきた僕だったが、その僕の心にもNHKの「みんなのうた」は生きていた。ハモネプでアレンジ満点とされYouTubeで70万回まわったDUCの「Under The Sea」のアレンジには、みんなのうたの「オランガタン」のイメージが生きている。「ラジャ・マハラジャ―」や「こだぬきポンポ」、そして「恋するニワトリ」など中学生の時からギターを弾いたりアカペラにアレンジしたりして何百回歌ったかわからない。視聴率や歌手のプロモーションではなく、「本当の歌」をわかっている場所がテレビにあるとしたら、ここ。それが僕の「みんなのうた」のイメージだった。

「実は…」と僕は話した。数年前にアイディアを思いつき、「いつかみんなのうたから依頼が来たら」と思って未発表にしていたDUCの曲がある。そのデモをその方にお聞かせすると、やはりお会いして良かった、という最大級の感嘆の声が返ってきた。

それから1ヶ月あまり。「みんなのうたの試聴会で満場一致で決定した」とご連絡が入った。20歳の僕だったらその時点で知っているすべての連絡先に電話をかけこのことを知らせ、朝に正体がなくなるまで酒を飲み続けただろう。今の僕はといえば、不思議と自然なこととして受け止めることができていた。人生の奇跡の多くは自分に準備ができた頃に起こる。奇跡に対して過度に「舞い上がる」のは、奇跡の向こう側にある世界と自分の周波数が合っていない時に起こる現象だ(20歳の僕のように)。

さて、「楽曲の制作にあたってサポートしてくれるメジャーのレコード会社はないか」と番組側から聞かれた。僕らのような自主団体のままでも進められはするのだが、やはり煩雑になる権利関係や音源クオリティの兼ね合いでレコード会社が入る形の方がスムースということのようだ。

しかし、番組側からレコード会社のご推薦が特にあるわけではなく、僕らの方で当たれるところがあれば、とおっしゃる。「了解しました..。」とお話を持ち帰ったものの、僕はメジャーと「アーティスト」としてお付き合いをしたことはない。一体誰が僕の話を聞いてくれるだろうか?

思いめぐらせて声をかけたのは、「演歌合唱団」の指導の際にお付き合いのあった日本クラウンだった。僕の合唱指導を公式Xで褒めてくださったことがあり、その時はあの「持ち込みDay」のことを思い出してじんわり心が温かくなったものだった。そしてなんと、日本クラウンは二つ返事でみんなのうたの曲の制作を引き受けてくれたのだ。合唱の専門家としての僕とDUCをよく知っていてくれているし、NHKとはお付き合いも多いとのことで、制作と、そして「その後」まで、楽曲とDUCを取り扱ってくれることになった。

メジャーレーベルである日本クラウンから楽曲のリリース、すなわち「メジャーデビュー」である。文字通り「願ってもない」一撃だった。

ある定例リハーサルの夜、DUCにこの件を伝えると、メンバーたちの大拍手の中、17年一緒に歌ってきたうだめぐが、清潔でもない床にどたんと仰向けになり、大の字に広がって叫んだ。

「やっとだよ!!」

僕の心の中は喜びというより、うだめぐを始め、長く一緒に来てくれたメンバーたちにこの報告ができた安堵感でいっぱいだった。いつまでも、どこにも辿り着かない道にみんなを巻き込んでいるんじゃないか、そんな心配を長い間どこかに抱えていたからだ。一人大切なメンバーが辞めてゆくたびに、間に合わなかった、すまない、そう思ってきた。

歌詞の内容からも、2月から3月にかけて放映したい、という計画になり、楽曲の制作には思いのほか素早い作業が求められた。まずは半端だった曲を書き上げ、テンポを調整して指定の2分20秒に収め、楽譜を整え、メンバーとリハーサルを重ねた。

青木さんというクラウンのプロデューサーがついてくれることになった。還暦過ぎの大ベテランながら長髪でシュッとした好青年のイメージをたたえた方で、DUCも合唱でお付き合いのある80年代アイドル西村知美さんの初期のレコーディングディレクターでもあるという。青木さんが椎名林檎さんのサウンドプロデューサーである北城さんと言う方と、Sound City という一流スタジオをブッキングしてくれた。以前に僕がこのスタジオにきたのは、ある著名アーティスト関連でフルオーケストラのレコーディングをしたプロジェクトのときだ。アルバム内に黒人霊歌の合唱演目があったので、芸大の声楽学生たちを指揮した。その時にはすなわち、下働きだった。

スタジオの心地いいソファーで青木さんたちに、30年前の僕がクラウンから出てきた紳士にデモテープを押し付けて濡れて帰った夜の話をした。オリジナルアーティストとしてここにいることは、僕にとっては30年前に出会えたはずの景色との対面なのだ。

製作が進んで、クラウン本社で今度はマスタリングの作業となる。この日再び青木さんと、僕のあの「持ち込みDay」の話になる。

あの日の1社目であった東芝EMIのO氏の話をすると青木さんが、「へえ! Oは僕の後輩です! 今はこの業界にはもういませんが。当時僕もEMIにいて一緒に働いていました!」と言う。そうか、僕があの日O氏の肩越しにみたあのオフィスのどこかに青木さんは座っていたかもしれないのだ。

「で、Oは木島さんになんと言ったんですか?」とお尋ねになるので、僕は一連の話をする。「レコード会社にとっての財産は、一つのスタイルを貫くアーティストなのだ」と言われたあの話である。

「木島さん。僕の意見を言っていいですか?」

この青木さんという人の言葉や佇まいはなぜかいつもちょっとドラマチックで心地よい。

僕が「もちろんです」と答えると、青木さんは続けた。

「それはOの意見です。レコード業界の意見なんかではないです。今売れている人たちの多くはさまざまなスタイルを駆使しますよ。」

僕はソファーに座って膝の上に組んだ手の中に頭を落としながら、「ありがとうございます。そうですね。」と返した。

30年の長い回り道のあとで、あの日の伏線を回収した瞬間だった。

30年前のあの日、僕は自分に言うべき言葉を間違えていた。あの日僕は自分に「世界は僕を必要としてないんだ」と言ってしまった。そしてその後、僕は心の中で無数にその言葉を繰り返してきてしまっていた。

22歳で米軍基地の黒人教会から必要としてもらった時、「僕を必要としない世界のことなんか忘れてしまおう。ここで必要としてもらえてるんだから」、そう自分に言っていた。

DUCを始めた時も「世界のことなんかどうでもいいさ。自分たちがいいと思うものを作るのが大事なんだから」と、自分に言っていた。

その度、それらの言葉の前には「世界は僕の夢なんか必要としてはいない」と言う前提が隠れてこだましていた。思えば、音楽大学の講師という仕事も「市場からは見向きもされないが自分は良いものをやっているんだ」というこだまを内心に抱えた音楽家の行き着く先として相応しい場所だったのかもしれない。

そうして過ごすことになった足踏みの時間が無駄だったとは言わない。むしろその時間こそが、人に物を伝える僕のスキルを育ててきた。目に見えないことやどんなに煩雑なことでも、理解できるように説明して感動に導く。それらの言葉は、世界の隅っこで音楽を続ける僕にとって「僕にそう説明してくれる人がいればよかったのに」という、僕の泣き声でもあるからだ。しかしこの回り道は時に、絶望で吐き気をもよおすほどの孤独な時間だったことは否定できない。

あの日僕が自分に言うべき言葉はあれ(「世界は僕の夢なんか必要としてはいない」)ではなかった。

「それでもこの僕でいいんだ」、そう言わなくてはならなかったのだ。

最も業界で権威がある人や、最も自分に利益をもたらす人、そんな人々から何を言われようとも、「今日はそう言われたけどね、でも僕はこれでいいんだぜ。必ず世界はこの僕の夢を必要とするはずさ」、そう言わなくてはいけなかった。その言葉こそ、自分に繰り返し伝えてやらなくてはならなかった。

運命の、という言い方が好きなわけではないが、今日というこの日に向けて、運命の歯車はあの時から動いていた。今はそうはっきり言うことができる。人生は過去と今と未来が丸くつながっているのだ。

僕は自分のやっていることや自分の人生の意味をなん度もなん度も疑ってきた。DUCの歴史が始まって以降でも、音大で教え始めて以降でさえそんなことがあった、といえば、驚く人もいるだろう。その度、僕には正体のわからない強い芯があることを確認し歩いてはきた。その果て、DUC の楽曲「Dig Dig」の一節を借りれば、DUCのみんなのうた採用とメジャーデビューは、人生の意味と神秘を再確認させてくれる「一撃」だ。

もう二度と僕は、人生や、人生の一つ一つの出来事の意味を疑うことはないだろう。

DUCメジャーデビューシングル「校長センセ宇宙人説」

校長センセ宇宙人説 ストリーミング/ダウンロード

One Comment
  1. 込み上げる涙で、字が見えなくなりました。
    15年前、何もかも無くした私が再生出来たのは紛れもなくタロさんのPower chorusで、仲間と歌ったあの時があったから。
    そして今の幸せにたどり着いた時、それは奇跡に近かったけどとても自然だった。タロさんの文を読んで、あーそう言うことなんだと納得しました。
    そんなタロさんの音楽が沢山の人に知って貰えるなんて、こんな嬉しい事はありません。
    Respect Your Miracle‼️

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