選曲の安全性 (The Sounds Of Blackness来日に関連して)

DUC が他のどんな “ゴスペル” アーティストよりも Sounds Of Blackness の楽曲を多くカバーする理由がある。それは、「サウンドを聴いて惚れ込んだ後で歌詞を学んでも、決して裏切られることがないこと」だ。

僕ら日本人は往々にして、楽曲を聞いた瞬間と、それが何についての歌なのかを知る瞬間とに時間差があり、そこそこの語学力を持っていてさえそれは起こる。

 

端な例だが、とある有名ゴスペルアーティストの楽曲で、「戦争を挑もう」という内容の大ヒットがある。素晴らしいサウンドで念入りに作られており、聞いていてかっこいいとも感じるだろうし、歌い手達は、聞けば歌いたくもなるだろう。

 

でも、僕個人の考えをはっきり言えば、日本人の集団が「戦争を挑もう」と繰り返し繰り返し歌うのを聞きたくない。

 

この歌詞は、聖書の「戦争は、血肉を持ったものに挑むのではなく、この世の闇や悪霊に対して挑むものだ(エペソ人への手紙6章12節概要)」という記載に基づくもので、パウロという著者のことやら、血肉を持った者やら悪霊やらの単語がわかり、聖書を理解した人々が歌うなら、それが何かしらの精神的な財産として機能する可能性を否定はしない。いやしかし、歌い手がアメリカ人であっても、世界最大の武力を誇り、銃犯罪が横行するアメリカで人々がそれを高らかに歌う姿も、僕にはゾッとするものだ。

 

くの日本人にはっきり知ってもらいたいのは(そして多くの日本人が知らないだろうと感じるのは)、ゴスペルはミュージカルとは違う、ということだ。

 役柄を演じて歌うアートであるミュージカルでは、フランスの貴族階級に対して戦争を挑む民衆の歌が美しいアートにもなる。でもゴスペルは、生身の人間が今日伝えたいメッセージを歌う音楽であり、アートとして本質的に全く異なる。それが発声や態度の違いにも影響する。

 

だから僕はミュージカルシンガーが歌うゴスペルを基本的に信用しない(例外はある)。彼らにとっては、演じることがアートの中核であり、ゴスペルにとっては表現の高みである「泣いたり叫んだりなどの不用意に現れる感情によって演奏の形状が変わる」ような出来事は決して容認されない。ミュージカルの「演じる」アート観念はゴスペルに向かない。

 

度か話しているが、Oh Happy Dayは、キリストに罪をきよめてもらった日の喜びを歌う歌、つまり、入信した日の喜びを歌う歌だが、日本では多くの人は意味を知らずに繰り返している。そういう音楽には、営業としてリクエストに応える形で整うことはあっても、アートとしての成長の余地はない。

 

 

Sounds Of Blackness はゴスペルグループではない。その彼らには、「教義」を歌う必要がない。ゴスペルであっても他の曲であっても、歌う言葉を選ぶ際の基準に「人を生かそうとする」という一貫性がある。

 

サウンドに惚れたらもう大丈夫。その曲をピックアップして、それが裏切られることはない。それが、DUCがSounds Of Blacknessの楽曲をどんな他のゴスペルアーティストの楽曲よりも多くカバーしている理由だ。

 

One Comment
  1. 僕らは歌うことをいつも欲しているんだ。鳥や虫たちだって歌っている。僕の子どもも歌っている。体から湧き出るものなんだと思う。

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