小学校1年生になる娘がいるので、僕は安全管理の旗当番として娘の通学路に立つことがある。
その役割の中、見送る大勢の子供達の中に一人、黒人とハーフの女の子がいる。
彼女はとびきりに朗らかで、元気良く挨拶を返してくれる。
いわゆるツインテールなのだが、そうはいっても「初音ミク」のようにはならない。黒人特有の髪質から、巨大な団子が頭に二つ乗ったような状態になるのだ。想像できるだろうか。
その子の、弾けたみごとな髪型と、彼女の明るさは、無縁ではない。
彼女の朗らかさは、僕には自然なことではないのだ。
さて、僕の住んでいる地域には見るからに黒人と日本人のハーフという子供が多い。米軍住宅地がある事はもとより、なぜだかアフリカ人の住人がここいらには多いのだ。そういう人々相手の食料品店さえある。
そして、娘の通った幼稚園は外国人の子供も受け入れることでよく知られた幼稚園で、同じクラスにも黒人とのハーフの子どもがいた。
実は、僕の娘とその友人達が、そのハーフの子を肌の色についてからかったということでちょっと問題になったことがあった。僕の娘は普通よりもはるかに黒人との接触が多いはずだった。それでもこのようなことになるとは。
つくづく親の役割とは難しい。
娘の同級生のそのハーフの男の子は、お母さん(日本人)と同じ肌の色になりたいと渇望していて、肌が黒いことをからかわれたことが、子供心に想像を絶するショックだったようだ。
娘には、向かい合って真剣な注意を与えた。
さて、前述の、通学路のツイン団子の女の子だが、彼女の親のうち、父母どちらが黒人なのかはわからない。でもはっきり言えることがある。
父母どちらであれ、娘に黒人の髪型と言うものをはっきり教えている。
それはつまり黒人の誇りを教えているということで、その髪質についての誇り=自分の特徴が自分の個性であり、さけるのではなく誇るべきものである事、それを確かに親が娘に教えているということだ。
なんということだ。
僕は幾度となく、黒人たちがいかに自分たちの誇りを保ってきたかという会話を彼らと交わしてきた。
エリカは、黒人の子供は黒人の子どもであることを学ばなくてはこの社会で生きて行けないと話してくれたことがある。
他人とは明らかに違うものを、違わないようなふりをして生きることは決して答えではない。まして、社会に自分の個性を無視するべきだと訴えるような行為は自分の人生の選択肢を狭める、馬鹿げたものだ。
「みなさん、私が黒人であることについては話さないでください」というのは無理というものだ、ということだ。
黒人の髪は縮れている。それにふさわしい髪型がある。
それらは大変に美しく、僕の妹などはダンサーなのだが、黒人の髪型に憧れ、それを手にするために、時に数万円でも払うことを時にいとわない。
この国で娘に黒人の髪型を教えること。それは、自分が自分であることの美しさと誇りを教えることだろうと思うのだ。
そして、僕自身はいつ自分が僕らしかっただろうか、と思いめぐらすのだ。
彼らの髪型を讃えよ。
(写真は、本日の教会から髪型の写真集)