昔々のお話。
子どものときの僕は、きっと誰もがそうであるように、自分が「この世界で特別な存在だ」と言う事を信じたかった。
子どもの僕がそんな事を言う度、「自分が特別な存在だなどと二度と口にしてみろ。こう言う目に合わせてやる!」というような反応に会い、いつも声を上げて泣いたものだった。
もちろん、母親は僕がとても特別だと言ってくれたが、「ではなぜ、世間が言う事と母親が言う事がくいちがっているのか」について、母は合理的に説明する事は出来なかった。その事が、「じゃあつまり世の中のほうがみな間違っているんじゃないか」という不審感を僕に植え付けていった。特に、小学校2年生で非常によそ者に閉鎖的な土地に引っ越しをする事になり、僕はゆっくりと世界に対して心を閉ざしていった。
そうして社会性をなくしていった少年の僕に「その言葉」を言ってくれたのは、近所の模型屋のおじさんだった。
そのおじさんはヘリコプターのラジコンの名人らしく、全国区のラジコン雑誌の表紙になる事もあった人だ。当時、「コロコロコミック」でラジコンボーイという漫画が流行っており、その影響かは記憶にないが、僕もラジコンカーを造っていた。その模型屋は近所だったために通い始めたのだが、夫婦経営のその店の主は、名物と呼ばれるにふさわしい変わり者で、頑固者だった。小柄でやせて、分厚いレンズの黒ぶち眼鏡をかけていて、何かの事故で昔壊したらしい片足を引きずって歩く、当時50歳くらいに見えた、いかにもとっつきにくい人物だった。
ある日など、僕が店内で商品をぶらぶら眺めていた時に、雑誌で流行ったある機種を買いにきた他の子どもがいて、その子に対しておじさんは言うのだ。「その車は走らないよ。それでも雑誌に載ってるからって欲しがる子がいるから置いてるけど。ラジコンカーって言うのはプロの技師達が何年もかけて設計する本物の車なんだ。そんな子どもだましみたいな細いプラスチックのシャフトの機種が走る訳がない。さあ、まだ買う気か?」
そんな風に、とうてい小学校4年生に理解出来ないような話を並べ立てて、小遣いを握りしめてやって来た子どもの憧れをぶち壊して追い返すのだ。
おじさんの模型屋は、数件隣に別棟を借りて「工作室」を用意していて、おばさんが店をきりもりする間、おじさんは工作室にこもってラジコン愛好家の相手をしていた。大人のラジコンマニアを主に相手にしていたと思うが、子どもには買えないような工具を自由に使えるように並べていたため、組み立てや改造に凝った子ども達も集まった。ところが、何を使うにもおじさんが口を挟んでくるのだ。
「そんな所に穴を空けるのはいいが、その穴の位置がどんな計算で出されるべきものか知っているのか? ああ~、せっかくの車を台無しにして。」
そんな感じだ。しかし、おじさんは決してその穴をあけるなとは言わないのだった。
僕の友人達は数回通うとイヤケがさして、もっと駅に近い別のおもちゃ屋に戻って行き、そこであの模型屋の「いやなくそじじい」の噂をするのだった。しかし、僕だけが何故かおじさんの模型屋に通い詰めた。用事や買い物があろうがなかろうが、おじさんの仕事を見たり、話を聞いたりしようと出かけて行くのだ。
おじさんは10歳の僕によく口にした。「プロを信じる事だ。プロを信じる事が出来る人間は、プロってものが何なのか知っている人間だ。プロを信じる事が出来ない人間は、一人で何でもやろうとして結局何も出来ない人間だ。」その言葉が今も心に残って僕を生かしている。
僕がおじさんの話を聞く中でいったいどんな言葉を自分からおじさんに対して発していたのか、よく覚えていない。だから僕がどういう印象をおじさんにあたえていたのかは解らない。
ある日の事だった。工作室に通っていた大人達のグループ(大人達は主に飛行機のラジコンを作っていた)のある男性が、おじさんがいつものように僕に話しかけるのを聴いていた。そしてその男性がおじさんに言うのだ。
「そんな事、そんな子どもに言ったってわからんでしょ」。
しかし、おじさんは珍しくちょっと笑顔になってその男性に視線を移し、答えたのだった。
「いや、この子には分かるんだよ。」
僕の脳は、その瞬間を今も鮮烈に覚えている。たった一つのその言葉が、僕の心に光を差し込んだからだ。誰の事も認めないかに見える町を代表する変わり者が、居場所のない少年の僕をそのように言う事は何よりも奇跡のような事だった。
いくら泣いて求めても世界中の誰からも得られなかったその言葉を僕にくれたのは、女神様でもヒーローでもなく、町の嫌われ者の模型屋のおじさんだった。