最高ワークショップの作り方考察

「迷いながらゴスペルを離れていた私にとって、”駆け込み寺” のようなワークショップだった」、という内容のご感想が届いた。
 その言葉は、ストークスの来日ワークショップが成功に終わったことを、改めて実感させてくれた。

全く知らない場所からも含め120人ほどの人々が集い、終了後の満足度は実に95%に達した。幸か不幸か、僕の直接の生徒の参加はほんの3割にすぎなかった。この手のワークショプは苦戦も多い中で、驚くべき数字だと考えている。

 結果には胸をなでおろしたが、もちろん最高の結果を信じてスタートした企画でもある。

 海外講師を招いたこの種のワークショップで、参加者の感動が制限される日本固有の問題がある。 
 それは、本物であればあるほど宗教活動となることを多くのゴスペル愛好家が望んでいないことであり、かといって宗教性を避ければ避けるほど本物としての体験レベルは当然低くなるというジレンマだ。
 日本でゴスペルをビジネスにしようとしてきた人々は、この問題に常に手を焼いてきた。主催者はなんとか宗教性をぼやかす方法を、受講者はなんとか宗教性に目をつむる方法を、それぞれ編み出してきたような歴史がある。そんな状態でアートが育つわけはなく、その結果は市場の低迷として如実に現れている。

 この種のワークショップが最高の体験となるための鍵はただ一つ、このジレンマを解消することにあると僕は考えている。

 そのために必要だったのは、第一に、講師(ストークス)との相互理解と、念入りな打ち合わせだ。


「たかがそれだけのこと?」と思うかもしれない。普通、講演会と呼ばれるものだったら、それは当たり前のことだからだ。講演者は、例えば「受講者は、私立の中堅大学で経済を中心に学び、来年に就活を控えた学生が中心です。学生に視覚障害者がいるので出来れば凝ったプロジェクターの使用は少なめの方が助かります。」と言われれば、講演者はそれ用に内容を準備してくる。

 たったそれだけのことをゴスペルの世界で難しくしているのが、前述のジレンマだ。

 日本のゴスペル界である程度力を持った団体は、一定の段階で当然、アメリカの著名ゴスペルアーティストや、彼らのフィールドであるキリスト教会に接近することを試みたくなるだろう。そうなれば、先方に気に入ってもらうために「自分たちはゴスペルを通じて日本でのミニストリー(キリスト活動)の一助を担っているんです」と、どこかで彼らに言ったりそういうフリをしたりしなくてはいけなくなる。その一方で、国内で受講者や協力者を集めるには「宗教活動ではなく純粋な音楽活動です」と、正反対のことを言わなくてはいけない。いってみれば「二枚舌外交」がコミュニケーション維持に必須の手段になってしまう。
 本音を隠すことを強いられるこのような関係の中で、日本人が求めているものと求めていないものをはっきり海外講師と話し合うのは難しい。

 ビジネス的な妥協アイディアとしてミュージカルや発声など他のパフォーマンスの黒人専門家をゴスペルの講師と謳って呼ぶこともあるかもしれないが、蕎麦打ち名人としてラーメン屋を呼ぶようなもので、受講者の目が肥えてくれば機能しない。(もちろん、純クリスチャン団体で国内に対してもミニストリーであると裏表なく表明している活動はこの限りではない。僕は、その人々を「ゴスペルグループ」あるいは「ゴスペル指導者」と呼んでいる。)

 ストークスのようなレベルの音楽家と、日本人の精神性についての深い理解やワークショップづくりへの協議ができることは非常に貴重なことだと考えている。

 これを可能にしている幾つかの要因がある。
 
 第一に、ストークスが卓越したアーティストかつ文化人であり、直接宗教的な言葉を授業内で使用しないとしても教えることがなくなってしまうような人材ではないことだ。米ビルボードの週間チャートの常連になるようなサウンドを作るのだから、音楽家として生半可ではない(発売日や発売時間の設定でどうにでもコントロールできる、種々の「瞬間チャート」ではない」) 。
 実のところストークスは牧師としても力のある人間だが、目の前の人々が今なにをどんな言葉で受け取る準備ができているかを見極め、その時に必要なものを選んで提供できるだけの豊富なリソースを持っている。
 
 第二に、ストークスが、他国の文化を敬愛できる人物だということだ。神社や寺を訪ね、そこにある人々の祈りの姿に感動できる人間であり、その美を讃えることができる。そのような異文化への敬意があって初めて、理解が始まる。決して神性についての自分の理解が、他文化のそれより優れているというスタンスに立っていない。
 「キリストの素晴らしさを人に伝える方法があるとしたら、俺自身がどう生きるかというモデルになるということ一点しかない。」。書かれた模範解答のようだが、これがストークスのクリスチャンとしての態度であり、聖書への誠意と、他文化の価値観への誠意を両立させる唯一の思考でもある。

 第三に、パワーコーラスというコンセプトだ。「ゴスペルに魅せられ、ゴスペル以外も歌い、目的は宗教活動ではない」という音楽ジャンル。
 牧師でもあるストークスにとって、「ゴスペルグループ、ゴスペルシンガーでない者がそれを名乗らないで済むように」というパワーコーラスの発想は、話し合えば話し合うほど自然だった。
 これは「命のコーラス」の歴史を学び、文化としてのゴスペルを学ぶワークショップであり、受講者の多くもその体験を求めてくるワークショップであることまで、嘘のない合意に達している。その合意と理解の上に協議を重ねてワークショップを構築することで、クリスチャンにとっても、ノンクリスチャンにとっても本物であり、双方が体験を通じて共存できるワークショップが可能になる。

 そして通訳の要素は大きい。多くのクリスチャン通訳は、「みことば」とか、「証し」とかのクリスチャンにしか通じない言い回しを使いたがるものだし、神やキリストを謙譲語であつかう。英語で触れるキリストは、日本で謙譲語の主な対象である天皇や上客などの存在感とは程遠く、もっとカジュアルで身近な存在で、それが生活音楽であるゴスペルの雰囲気とよくなじむ。しかし、多くのクリスチャン通訳は、自分がよかれと思う言葉づかいによってキリストと一般の日本人をひたすらに遠ざけてしまっていると感じる。彼女らにその修正はきっとできないだろう。そのような通訳によってブレイクし損ねた海外ゴスペル講師は相当多いと僕は考えている。

 ではノンクリスチャンの通訳だとどうかというと、今度は、聖書の単語や教会用語に慣れていないため訳せない。かつて、有能だと言われる通訳者に海外のゴスペル関係のアーティストの通訳をお願いしたらステージ上でまったくしどろもどろで結局僕が助けに入らねばならず、逆に申し訳ないことをしたとひどく反省したことがある。パワーコーラスのコンセプトにおけるゴスペルの通訳としては、日本の教会用語に染まっていない僕自身が適任であると感じる。本職の通訳に比べて早口などの問題はあるものの、それも講師のペースを奪わないための一長一短だと考える。

 

 全ての人が自分のままで声を束ねる音楽。趣味でも娯楽でもなく、人が最も苦しい時を生き抜くための音楽。ゴスペルの歴史とサウンドが与えてくれたパワーコーラスの夢について、一週間あちこちへと走らせた車の中で、僕らは話を重ねた。師、ストークスは実のところ、僕が人生で最も長話をする相手なのだ。
 
 この国で本当に人々が心からの言葉を叫び上げるサウンドが始まれば、黒人史の中で黒人霊歌とゴスペルが果たしたように、この音楽は凄まじいパワーを持って人々の命を繋ぐ役割を果たしてゆくだろう。それは、ノンクリスチャンのビジネスマンとビジネスしたいクリスチャンが愛想笑いで妥協を追求し合うような市場でしなびさせていい音楽ではない。

 もちろんストークスは、上質な体験を携えてまた来る。

 僕は、ゴスペルに迷う人々の種々の「駆け込み寺」が、本当のサウンドとともに広がってゆく未来を見据えている。


 

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