DUCがセレクトしたCan’t Give Up Now は、「神を賛美しよう」とひたすら繰り返すゴスペル、いわゆる「プレイズ & ワーシップ」とは違い、「インスピレーショナル」という種類のゴスペルに分けられる。
例えば、まもなく30歳になる一人のミュージシャン。普段は居酒屋のバイトで稼ぎ、稼ぎの多くの部分をスタジオ代や楽器機材のローンなどに費やしている。普通に就職した大学の同期たちの幾らかは結婚し子供を持ち、中にはマンションを買ったやつまでいる。
自分はライブをやってもお客は多くて20人。希望を繋げないかつてのバンド仲間も音楽をやめていってしまった。
自分は才能があって特別だから就活なんかしないと、勢いにあふれていた。
俺はなんであのとき、自分に才能があるなんて思ってしまったんだろう。強く夢を持てば運命が味方してくれるなんて、なんで信じてしまったんだろう。
自分はどこかで間違えてしまったんだろうか。
今からでも彼らのように就職した方がいいんだろうか。
いや、そんなことしたって今から彼らのようになれるわけがない。音楽しかやってこなかった。ろくに会社勤めも知らない。
今から彼らの半分も稼げるようにはならないだろうし、それに、そんな日々を生きることになんの意味がある。
「今諦めることなんかできない。だって、始めたところからあまりにも遠くまで来てしまったし、神が私を一人で置き去りにするためにこんなところまで連れてきたなんて、私は信じない。」
その歌詞は、音楽家としてなんの成果もなく年だけを重ねていた僕の心に深く刺さった。
この歌の歌詞が「信仰」というものの力と価値を僕にいくらか理解させた。
いわゆる「黒人教会」というところに身を置けばわかるが、「最高の信仰」は常に「賛美」になる。全てのことを取り仕切っている全能の神をすっかり信じていれば、最大の苦難の中でも、その苦難に意味があることを知り、この世界を作って自分をこの世界に生み出した神に感謝することができる。結果、苦難の中で全身全霊神を賛美するというスタイルを見ることになる。
でも、教会の外から見れば、そう言う賛美のスタイルは「すぐ混ざれない」。普通、そこまでの神への信仰はいきなりは育たない。
これが理由で僕はあまり賛美曲(プレイズ & ワーシップ)を自分のチームやクラスでやらない。アートとは体と脳の共同作業だ。体が喜ぶからといってビートに身を任せて手を叩いて騒いでも、脳がついてはこない。そのため、信仰を持たない人々と一緒に賛美を高らかに歌っても、それが全身全霊のアートになると言うことはないし、そういうアートに波及効果はない。だったら、「あの素敵な人と恋に落ちたい」とみんなで歌った方がよほど脳と体のリンクは強い。
でも、この一曲は、自分の中で揺れ動く信仰の「弱さ」を見せてくれる。だからこそ、それでも心の底に残る「信じたい」という信仰の種の、消えることのない強さが見える。そこに、目に見えない、自分を愛してくれている、自分を導いているはずの存在を信じる心への入り口が見える。黒人教会という場所で僕らが目撃するあの全身全霊の賛美を理解する糸口が見えてくる。
一度信じた。その光を追いかけてきた。それが嘘だったわけはない。人々にも、時間にも、全てに見放されても、絶対そこにあるはずの光をもう一度探している。歌詞は、信じる、と繰り返すのではなく、信じない/そんなはずはない、と繰り返す。
Can’t Give Up Now は夢を追う僕にとって特別なゴスペルナンバーであり続けている。