「男子〜、ちゃんと歌いなさいよ!」は過去になる。

2022年の「合唱の夕べ」が終わった。
国立音楽大学講堂大ホールは「歓声」に包まれた。

音楽以外でこのホールが体験してきた音はきっと、静かな拍手か、大きな拍手か、どう公演が素晴らしかったとしても、いくつかの口笛とブラボーの掛け声が関の山だったのではないだろうか。

この日、学生たちは今鳴っている音と自分たちが出している音を自分たちが最高に楽しんでいること、そしてそれが叫びとなって口から出ることも、隠さなかった。彼らは金管楽器、木管楽器、弦楽器、ピアノ科、音楽療法科、作曲科、コンピューター音楽学科、ジャズ科、教育科、つまり「声楽科以外」の雑多な学生たちだ。

これこそ「僕がよく知っている合唱の姿」だった。
自由の森の合唱の姿であり、黒人教会の合唱の姿であり、芸能人合唱バトルで目指した姿であり、DUCの合唱のスタイルだ。

「男子〜、ちゃんと歌いなさいよ!」は中学校ではあるあるの出来事なのだと、学生たちは言う。
国立音大に勤め始めて以来、合唱を愉しむという人間の根源的な活動をこの国から奪ったのは一体誰なのか、なんなのか、思いめぐらせてきた。

日本の多くの教育現場でおごそかに行われてきた「声を頭に当てる合唱」つまり、「頭声合唱」の文化は、「一つの完璧なモデルに向かう合唱」の姿を長いこと子供の心に焼き付けてきた。

先日見てきたNHK全国学校音楽コンクール(Nコン)の決勝大会では、各「強豪校」の凄まじく整ったハーモニーが「どの学校が歌ってもほぼ完全に同じサウンド」という結果に当然のように向かっていた。その姿は僕にとって、どう控えめに言っても「非常に特殊な1ジャンル」にしか思えなかった。

特に印象的なのは「ハーモニーは完璧だが歌詞が何を言っているかよく聞こえないこと」で、そういう状態を聴く人たちもそれを当たり前だと思っていたことだ。

もちろん、歌詞が何を言っているのかわからなくてもいい音楽もある。洋楽などは典型だ。だとしてもこれでは、合唱でメッセージを伝えようなどという建前は成り立たない。この曲のメッセージがどうのこうの、という最後のスピーチを聞くと、とんだ矛盾だと感じてしまう。

現に、今年のNコンの課題曲を作ったというJ-popのアーティストが審査時間中に行ったデモ演奏が今日最も感動した、と同行した学生たちも認めた。死力を尽くした長いコンクールの最後にそんなことをリスナーに言われてしまうような音楽を、子供たちに丸一年もかけて作らせていることに、音楽家としては悲哀さえ感じる。

これは、日本人のいう「頭声発声」がそういう状態に向かっているからで、そういうサウンドになった理由を僕は、戦後、声質はオーストリアのウィーン少年合唱団に似せて柔らかく、発音はイタリア歌曲の歌唱法にならって全ての母音で口を縦に開けて、という流れが定着させられてしまったからだと読んでいる。

「高尚な音楽家の耳にとって美しければそれが正義」であって、それで実際に客席の感動を呼ぶかは二の次なのである。
それが日本の教育合唱を「リスナーのいない音楽」にしてしまった。自分も合唱をやっているか親戚が出演しているのでもなければ合唱のコンサートにわざわざ行く人やCDを買う人はいない。高校野球とはえらい違いだ。

その姿勢はそのまま音楽大学に受け継がれ、毎年数百人の「食っていけない音楽家」を生み出している。

僕はクラスに話した。
「ここは教職クラスだ。みんなが教えるほとんどの子どもたちは音楽家になるわけじゃない。その子達にとって重要なのは美しい芸術を作れたかどうかじゃない。合唱とは、その子達が人生で経験する唯一の音楽アンサンブルかもしれない。だから、人と集まって一緒に歌うって何て楽しいことなんだろう! って感じてもらえるかどうかが重要なことなんだ。その子達から芸術家が出るとしても、その後の話だ。」
芸術合唱は、声楽科の合唱の方できちんとやってくれる。

はしゃいで収拾のつかない学生たちが力任せに声を出すことを僕は決して授業で奨励したわけではない。僕の冷静な脳は「音大生なんだからちゃんと音程くらい当てろ」と口酸っぱく言ってきた。
でもきっと僕の顔の方は、はしゃぐ彼らの歌を聞きながらいつも笑っていたのだろう。僕のハートは無言で「そう、これが合唱」と、はっきり宣言していた。

結局、彼らのサウンドは僕と観客と聞いていた他の学生たちとをウキウキと浮き立たせるものとなった。

こんな合唱を音大で行えば、きっとアンチという人々が出るはずだ。いなければ、新しいことにトライしていない証拠だ。

でも、教育とはいつも新しいやり方に挑戦する必要があるものだ。なぜなら、教師は常に自分よりも新しい世代にものを教えなくてはいけないからで、新しい世代は新しいやり方でなければものを学べないからだ。

だから、僕のスタイル、すなわち「パワーコーラス」を音楽大学の教育現場に持ち込むことにはきっとアンチがいる(幸か不幸か、まだ正面からは出会っていない)。

こんな合唱は音大の教育に似つかわしくない、という人がいたら、その人の話は興味を持って聞こうと思う。しかし、一つだけはっきり言えることがある。

「でもこいつらが教師になったら、男子が合唱嫌いなどという日本の文化は終わらせてくれますよ。」

なお、誤解のないように言っておくが、当該クラスではきちんとラテン語の宗教曲など、頭声発声合唱も学んでいる。

木島タロー
国立音楽大学合唱講師
米国海軍契約教会ミュージシャン
Dreamers Union Choir 主催
一般社団法人パワーコーラス協会代表理事
著書:歌って生き抜け命のコーラス
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