イーストチャペルの記憶。

(ストークスの記憶についての記述の、リメイクです。)

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告白すると実は、僕は黒人教会に20年通っているからゴスペルを知っているんじゃない。「ストークスに出会ったから」ゴスペルを知っているのだ。

MD Stokes 来日に寄せて。イーストチャペルの記憶。
 
 横田基地内には、滑走路を挟んで街が二つある。滑走路の西側が大きく、東側が小さい。 それぞれに1つずつチャペルがあるが、東の街の小さい方のチャペルを、「イーストチャペル」という。僕の礼拝音楽の学びのほとんどは、そこで過ごした「最初の3年」にあった。
 COGIC(コージック)という、熱烈な賛美スタイルで知られる黒人教会の一派出身のカリスマ牧師がいた。そこに、事務感覚はメチャクチャだがクワイアーをどんな風にでも操れるパワフルなディレクターがいて、マライア・キャリーのドーム公演のバックを務めるほどの精鋭黒人クワイアーがいた。僕が入って間も無く、ストークスがバンドディレクターになった。200人も入ればいっぱいになる小さなチャペルは、横須賀や座間からも人がやってきて、毎週立ち見が出るほどの規模になり、礼拝は凄まじい熱気を持っていた。アメリカでは大した数字ではないだろうが、日本では考えられない規模だった。

 クワイアーが複数あって(大人、男声、ティーンエイジャー、キッズ)、週の違う日にリハをしていたため、僕は当初、礼拝と合わせて週4で教会に通っていた。ストークスがバンドディレクターになってからは、それとは別にバンドリハーサルの日を設けたため、週5だ。この礼拝で役に立つ人間になりたくて僕は、一日4時間の勉強をへて英語を覚えた。

 礼拝でのストークスは厳しい教師だった。どんな音を出して良くて、どんな音を出してはいけないか、厳格に念押しされた。好きな音を出しまくっていた一部の米兵ミュージシャンたちは、若きストークスの指示が気に入らず牧師に訴えて出た。しかし牧師は「ストークスくんに従うように」と、彼らを諭した。

 完璧な音で繰り広げられる熱気ある日曜礼拝が終わって、午後、ストークスの家に移動すると、アレックス・イーズリー、ポーラ・ジャクソンやラニー・ラッカー氏がたむろしていた。彼らは僕のことを「ストークスのところのガキ(Stokes’ Boy)」と呼んだ。
 家の中の小さな倉庫のような部屋でシンガーを録音しながら彼は、「HipHopのコーラスはこう録る。ゴスペルはこうだ。」と、22歳の僕にお喋りをしながら作業した。そうして録音したトラックは、ビクターやワーナーブラザーズジャパンの新人のトラックになった。

 3年間の滞在のうちの最後の1年。日本でのビジネスが広がってきたストークスは、日本に残ろうかと悩んだ。残って欲しい、いつまでもここにいて欲しいと思っていた僕に、彼は言った。
「日本では、全てが ”いかにアメリカっぽく作るか” だけで評価されてしまう。ここにいたら、俺は多分ミュージシャンとしてはダメになってしまう。それに、アメリカに帰ったら多分すぐにゴスペルの世界でうまくやる。」
 そう言った時の彼は、今思えば30歳になったばかりだった。

 日本に残る最後の1年になって都内で始めた日本人のクワイアーは、たった8人でスタートしたのに、わずか半年で120人に膨らんでいた。
 毎週レッスン会場でまきおこる興奮は、僕にしてみれば「教会の興奮として毎週あるのが当たり前」のものだったが、確かに、それを教会の外で、しかも信仰スタイルの違う日本人とともに巻き起こせるのは、ストークスだけだった。

 ストークスが去るのを待たずして、最初に任期切れでカリスマ牧師が去った。ついであのパワフルなディレクターが去り、そして、ストークスが去った。

 あとを継いだ牧師は女性関係で問題を起こし、教会はすぐに崩壊した。あの礼拝から出た少なくとも4人の聖職者が基地のすぐ外にそれぞれ別々に教会を立ち上げて、あの巨大な礼拝からの会衆の引き継ぎを狙った。あちこちの基地からの黒人たちで溢れていたイーストチャペルの礼拝は、まるで全て夢だったように閑散とした。
 新たに上手な黒人のオルガン弾きがやってきたものの、礼拝の時間以外はただの兵士で、第二のストークスには程遠かったが、その時のイーストチャペルにはもう彼一人で十分だった。
 僕はもうここで必要とされていないと感じたし、僕らを毎週新たな興奮で生き返らせてくれたあの礼拝の記憶をもって、その遺跡のような空間にいるのも寂しかった。

 僕はそのころ、足掛け6年付き合った彼女が離れてゆき、学生の時から続けていたバンド活動も崩壊していた。
 そんなこともあって、住んでいた部屋を引き払って実家に戻り、そこからほど近い別の米軍施設の黒人教会の礼拝を初めて訪ねた。
 アラバマ出身の太った黒人のおばさんが僕に、「お前、さっき自己紹介でミュージシャンだと言っていたが、何が弾ける?」と尋ねてきた。僕は、なんでも弾けるからあなたのキーで歌ってくれ、と答えた。いぶかしげにも彼女は歌い出し、僕はすぐにピアノをつけた。歌い終わった彼女は目をまるくして、「お前、ゴスペルをどこで覚えた?」と僕に聞いた。
「師がいるんだ。」と僕。内心、「…そして輝く礼拝の記憶があるんだ。」そう呟いていた。
 
 彼女はすぐに僕のために米軍の契約をとってきた。こうして僕は、プロのゴスペルミュージシャンとなった。
 
 アメリカに帰ったストークスの噂はすぐに入ってきた。日本にやってくる米兵たちが、ストークスがプロデュースした曲を「南部でのヒット曲」として知っていたのだ。やっぱりやってくれた、と僕は感嘆した。僕がゴスペルを学んだ人物は、トップランナーだったのだ。
 
 教会でピアノを弾くたびに、クワイアーを録音するたびに、ミュージシャンに指示をするたびに僕は、「ストークスなら…」と内心呟く。迷いながら何かを指示する時、僕は右耳の後ろを掻く。それはストークスの癖だった。
 
 あの3年間は、つかの間の夢だった。でもその夢のカケラはまるで、何かの物語に出てきた、1カケラくべれば永遠に汽車を動かせる「太陽のカケラ」のように、今日も僕に音楽を作らせている。
 
 少なくとも僕の声が届く全ての人には、どうしてもシェアしたい体験がある。
 MD Stokes 「現場式」クワイアーWSは、1/25-27。

 

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