師・MDストークスの記憶

 20年前、ストークスの家に行くと時折、日本で最も売れてる黒人バックコーラスシンガーであるポーラや、ラニー・ラッカー氏などがたむろし、録音作業をしていたり、おしゃべりをしたりしていました。そのうち何人かから、僕は「ストークス・ボーイ(名前はわからないがストークスのところのガキ)」と呼ばれていました。
 
 基地内の住宅なので日本と作りは違い、全てがやや大きめです。その大きめの押入れの中にはマイクスタンドが設置され、シンガーは押入れに入って歌っていました。当のストークスの居所は、階段下の納屋です。その天井は階段の傾斜で奥へ行くほど狭くなっていました。そこからマイクで押入れの中のシンガーに指示を出して歌わせていました。

 「1つのパートを、右、左、センター、3トラック録るんだ。日本ではどうやるか知らないが、R&Bではこうやって録る。」

「キックドラムとスネアとボーカル、それだけの音量をまず調整する。他は全部後だ。」

「この音楽ではストリングスをそんなに和音では使わない、いいか、オクターブでメロディーをこうやって弾くんだ。」

 ストークスは一つ一つ話しながら納屋に首を突っ込んだ僕に話して行きました。

 ストークスとの出会いは、教会のリハーサルでした。ある日ふらっとやってきたのです。その日の景色をよく覚えています。
 謙虚な態度でしたが、凄まじいピアノを弾いて帰って行きました。それまで、教会のミュージシャン達は、音色に雰囲気のある黒人演奏家たちではありましたが、軍人であり、あくまでアマチュアでした。教会に来ているというだけの音大卒業生の僕も、主にはただコードを弾いていただけで、本当のゴスペルの演奏を生で聴くのはそれが初めてでした。僕は彼の演奏を見ながら、多分口をあんぐり開けていました。

 牧師は、すぐに彼をバンドディレクターに任命し契約しました。
 彼は最初に、ボランティアのバンドメンバーたちに、クワイアー練習の日とは別にバンド練習の日を設けさせ、練習に時間通りに来るよう指示しました。勝手な音を吹く悠に年上のサキソフォニストに「吹くな」と指示し、俺のそばに立って常に俺の指示を見ろ、と指示。ドラマーにもベーシストにも、どのスタイルの楽曲では何をすべきか細かく指示しました。演奏ミスは許されましたが、ちょっとここで暴れてみよう、みたいな勝手な判断は決して許しませんでした。
27歳の若きバンドディレクターが、これまで好き放題やってきた10人のバンドに山のような禁止事項を告げるのですから、彼らは当然、牧師のところに行って、ストークスの「暴君ぶり」を直訴しました。牧師は聡明な人間で、皆に黙ってストークスに従うよう、優しく告げました。その結果、メンバーのほとんどはバンドから去り、4人だけが残り、バンドのサウンドは完璧になりました。

 日曜になると、教会は座間や横須賀など周辺の基地からもやってくる黒人たちでいっぱいになりました。牧師があまりに大きなカリスマの持ち主で、しかも音楽が完璧だったのですから、当然の結果です。

 毎週行われるやかましく荘厳な賛美を、僕はバンド席のストークスの後ろに座ってじっと見ていました。1曲か2曲、僕が任された楽曲になるまで眺めていたのです。

 僕は自分の製作した楽曲を、ストークスに聞かせました。車の中で僕のテープを聞いたストークスは、「(詞が日本語だから)何を言っているのかはわからないが、曲は悪くない。でも、音が悪い。」と言いました。確かに、ノイズはのっています。でも僕は曲を書く人間で、ストークスのように、音を綺麗にとるための機材なんか持っていません。「僕の曲がいいと思ってくれるディレクターかなんかがいたら、音の綺麗さはやってくれるんじゃないのか」と、だんだん喋れるようになってきた英語で僕は彼に言いました。
「お前の言っていることはわかる。だが、プロの世界はプロしか欲しくないんだ。」と、彼は僕を諭しました。僕は一気に機嫌を崩しました。「だったら今プロじゃない人間は永遠にプロにはなれないということだ。」 不機嫌な僕を説得する代わりに、ストークスは、僕の楽曲をストークスの手で録音してみようと申し出てくれました。

 録音が終わると、狭い納屋の中に二人で座っておしゃべりをしました。彼は聖書についての僕の質問に答えてくれました。一方で彼は、日本人の宗教観に興味を持ち、僕はその説明をしました。そうして、彼の口癖が僕の口癖になるほど、僕の英語は彼との会話の中で育ちました。

 若く、人とは違うというアピールを好み、大きなピアスをつけ、トゲばかりの人間だった僕はその時、日本のミュージックシーンへの文句を言っていました。「日本ではヒットチャートのトップは顔のいい人間ばかりさ」と僕が毒突くと、彼は答えました。
「タロー。お前は尖りすぎだ。アメリカだって同じだ。ヒットチャートのトップは顔のいい人間ばかりだ。」
 
3年後、いよいよ別れの時が近づいてきた頃、すでに彼の周りには彼を頼りにする人々の層ができていました。最後の年になって始まった青山のゴスペルクラスの生徒は120人になっていましたし、彼らは一人が一回のレッスンに3000円を払っていましたから、運営会社はなんとかストークスを引きとめようとしていました。某大手レコード会社もプロデューサー契約を用意し、奥さんが軍の仕事を辞めても十分な収入が得られそうだ、と言っていました。僕は、ストークスの日本滞在を心から望んでいました。

しかし、揺れ動いた末の彼とある日会話をしました。
「タロー。お前は正しかったよ。俺は以前、日本もアメリカも変わらないと言った。だが、違った。
「アメリカには “ミドルクラス” のミュージシャンの層があり、そこが分厚いんだ。有名じゃないが食えている、とか、全国区じゃないが自分の州ではスター、といった連中の層だ。彼らはみんなホントに凄いアーティストなんだ。だから、彼らを集めて、その中から顔のいい人間を拾い上げることができる。そうして、凄まじい力を持った上に顔のいいスターができる。日本にはミドルクラスがない。だから、顔のいい人間をまず拾ってきて、彼女らに無理やり歌を歌わせようとする。」
僕はなるほどと頷いて聞きました。
「俺の仕事はここでは、”いかにアメリカっぽい音楽を再現するか” で計られてしまう。でも、アメリカではみんなが独自の音楽を作ろうとしている。日本でこんな風に重宝され続ければ、音楽家としての俺の成長はここで終わってしまうだろう。
「それに、俺は多分アメリカに帰ったらゴスペルの世界で成功すると思うんだ。ゴスペルに集中しようって思える自分を作ってくれたのは、この日本だ。」
 
 そして、彼は、アメリカに帰ってしまいました。同じ頃、当時付き合っていた女性との別れと、長年やってきたバンド活動の空中分解を体験することになった僕は、それまでの人格の崩壊を経験することになります。新任の牧師は女性問題を起こし教会は一気に縮小。新しいミュージシャンともそりが合わなかった僕は、演奏する教会も別の米軍基地に変えました。

 やがて、ストークスのプロデュースした楽曲がアメリカで大賞を受賞しました。新たに基地に配属されてくる教会の黒人たちは、その曲を知っていました。ストークスに電話すると「あの曲はうちのガレージで録ったんだよ。」と言って、録音の手法を幾つか説明してくれました。

 彼自身の楽曲もビルボードチャートへ。そして、大きなプロジェクトに連続して参加し、それらの作品はいよいよチャートの1位へ。

 彼が、自分は成功すると思う、と「予言」した時、彼は何の人脈も持っていませんでした。ただ自分が作れる音が、他の人が必要としているものだという確信を持っていただけです。

 僕の人生で最も重要な出会いを聞かれたら、迷いなくストークスと答えるでしょう。
 僕の経歴を話すと、皆、僕が米軍基地でゴスペルを学んだのだと考えますが、正確には、ストークスから学んだのです。

 実のところ、日本の米軍基地でのゴスペルの演奏が常に本物性を持っているなどということはありません。技術面についてだけ言えば、むしろ逆のことの方が多いのです。

 2018年、彼が現在演奏するアリゾナ州ツーソンを訪ねると、50歳近くなり、白髪をまとった彼は相変わらず行く先々で人々から必要とされ、生演奏と録音それぞれで最新機器と音を使いこなし、丁寧に僕に機材の説明をしました。

 かつてのように僕らは、聖書の話や、キリスト教以外の信仰の話、パワーコーラスの話を静かにたたかわせました。

 今や若さの持つ勢いではなく、経験からくる重量感を漂わせ、それでも、立ち止まってもいない、輝きが失せてもいない。
 そんなストークスを改めて見て、僕が学んだものの幾らかでも、仲間と言える人々に届ける機会を設けたいと思っています。
Stokes_Laughing

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