迎春・災害大国の宗教観

「初詣」が俳句の季語に登場するのは明治後期以降で、大挙して年始に神社に詣でるのは「鉄道の発展によって生まれた比較的新しい文化」だという。

上記を著述している宗教学者の島田裕己氏の見解は面白い。

「台風、津波、地震の災害大国である日本に一神教は合わない。唯一神が全てをコントロールしているなら、神を恨み続けなくてはいけないからだ。」という。だから、同じ外来の宗教でも、全てが形を変えてゆく「無常」を説く仏教がマッチしたのだろうというのだ。
これは相当理にかなってるように思えるし、日本人の宗教観に文句をつけたがるキリスト教の伝道師たちも、そこを整理した説教ができそこねている可能性が高いように思う。

NHKや国学院大学の2000年ごろの調査によると、「何か信仰を持っている」日本人の割合は3割。「何ももっていない」が7割。一方で、初詣をする日本人の数は9900万人で、明治神宮だけでも300万人という。年に一度のメッカ巡礼をするイスラム教徒が200万人(ただしこれは人数を制限している結果)だというから、凄まじい数だ。 つまり国際的には「宗教活動をする日本人の人口は徐々に増えている」と見えかねない。

上記は島田氏の著書による情報だ。果たして初詣は宗教活動という種のものだろうか、それを考えると、必然と、宗教とはなんだろうか、という話になる。

僕として思うところがある。キリスト教の礼拝を宗教活動と呼ぶなら、僕にとって初詣はとうていそれと並べられる種のものではない。

はたして、それには及ばないというべきか、それ以上のものというべきか。

つまりこれは新しい年が来るんだ、という心のスイッチのための儀式だということだ。多くの日本人にとってそうではないか。しかもスイッチとして大きな効果があると思うのだ。新しい年に決まった場所を訪れ、何かを願い、何かを買い換える。それは、そこにいる何か神聖な存在を「賛美礼拝」しにくるという感覚とはまったく違うものだ。

災害大国日本の人々が何より大切にしているのは「時節」なんじゃないか。

時の区切りを大切にしているんだ。そのための儀式が大切であり、それ以上でも以下でもない。

うちの教会(アメリカ人の教会)には今日もクリスマスリースがごっそり飾ってあって、1月8日「ころ」になんとなく片付ける。日本人は、奇妙なことだが、25日の夜にはきっかり片付け、別の時節に入る。

災害大国であり、身を焦がすような悲劇が常に隣り合わせだからこそ、どんな悲劇の後でも新しい時節に入るという心のスイッチが、この国にとってはあまりに大切なんじゃないか。

そんなわけで、教会ミュージシャンの僕も、心清しく神社を訪れることに何の気兼ねも矛盾もない。

ついでに率直に言えば、そこに何か目に見えない友人がいる、という神道がもたらす発想も好きだ。

あけましておめでとうございます。

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